ドリル帝国ブログ

ボドゲと映画とときどき旅行

記しておくこと

http://d.hatena.ne.jp/nakakzs/20081217/1229428336
12月は忙しくて反応できなかったのでいまさらだけど反応しておくとする。
私が同人誌即売会にかかわったのは、高校時代に某県某市内にある高校の漫研の連合体のようなもので年2回開催されていた小さなものだった。各高校の部長が持ち回りで主催になるのだが、私も主催を経験したし、20歳を超えてからは何度か後見人も勤めた。
それはまだ同人誌ではなく部誌だったわけだが、そういったものを作ること、開催することに対しての準備は出来ていたというわけ。
そして某専門学校に入学してある男と出会ったことで私はコミケのスタッフになることに。その男はコミケでは有名人だ。何せ今や設営の棟梁なので、あぁと膝を打つ人も多いのではなかろうか。
まぁそんな男と出会った18の春、ちょうど昭和から平成に変わった年だった。次第にクラスの中で出来ていくグループの中で数人がコミケに誘われることになった。35回だったと記憶しているが、今のようにきっちりと登録した覚えもなく、ただ混雑担当の面々に混ざって列を並べていた気がする。でも春コミって3/25だったはずだから出会う前なんだよなぁ・・・この辺何か記憶がちぐはぐなんだが。同人誌も買ってないし、宿も海員会館の誰かの部屋に忍び込ませてもらってたんじゃなかろうか。
正式にスタッフになったのは36回からだ。作業集会にも拡大集会にも参加して、カバーの換えられる手帳ももらった。腕章もカタログも36回から取っておいてあるがもちろん今ほど厚くはない。
35回は抜かすとして、前晴海は1回しか参加してないのかな。夏コミの時点で既に冬はメッセに移ることはわかってた。確か見学ツアーに行って出来てないメッセを見た記憶がかすかに残っております。
メッセに移ってのコミケは実は3回しかない。このときは私は混雑担当(対応)で、もっともハードな部署でもっともハードな時期だ。炎天下、恐竜博と現代美術展が併催されているのでそのお客さんがコッチに来ないように延々と整理したり、屍のモールと呼ばれたサークル列を並べる場所で脱水症状になったりと本当に大変だった。大々的な刀狩が行われたのもこのときだし、過激なコスプレが入場列の待機場所の後コスプレ広場になった1ホールに現れたりと、巨大な1つの建物に収まってその巨体を始めて認識した気がしますな。
ちなみに幸福の科学がとなりに(12/23,24開催だったので)いたのもいい思い出です・・・もちろんそこも隣に行かないよう来ないように整理してましたよ。
さて、次は全館開催だというところでメッセから追い出された戻り晴海で40回を迎える。私としては5回目のスタッフだ。戻ってからA館体制や南館体制などいろいろ携わって、開幕ガメラ館中央通路担当なんてのもやった。アレは恐ろしい体験だった・・・人津波を真正面からたった一人で押さえ込むなんてのはどだい無理な話で、広げた腕はおろか真正面から弾き飛ばされたのはちょっとトラウマですな。
ちなみに既に伝説となっているいくつかについて言及しておこうと思う。真偽が定かでないのはひとつだけ、植え込みの中に高気圧発生装置が埋め込まれてて、煩悩の量が一定以上になると台風も押し返す高気圧を発生させるってやつくらい。新館2階にオタク雲が出来て雨が降ったのは本当。確かどこか1個エアコンが壊れててひどい暑さになって雲ができて、天井で冷やされて水滴になってぽたぽたと。広い範囲じゃなくて局地的に蒸留水が出来たレベルで雨が降ったわけだな。
メッセもそうだけど、晴海も一般入場列が会場を巻いたのは本当。最後尾が勝鬨橋を超えそうになったのはマジで参った。そして入場が午後2時を超える事態になってC館へのトラック駐車場一般入場列が崩壊。大変な事態になったのを私はそのトラック駐車場側から見ておりました。C館に徹夜と最前列を入れるようになってから(後でコスプレ広場になるけど、晴海は会場全体がコスプレ広場だったしな)今の部署である外販との接点が出来たわけですな。
結局晴海で10回、5年の長さにわたって開催されたわけです。その間に私は混担から外販に部署を移し今に至ります。つまりビッグサイトに移ったのが50回。私のスタッフ参加歴の半分以上がビックサイトになったことになります。その間ぼちぼちサークルでの参加もして(今年もした)、同人誌も買い、コミケのおいしさを存分に味わえた20年だったと思います。まだまだスタッフ辞めませんしね。